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はじめに
皆さん、こんにちは。今日は、「ビューティフルマインド」という映画について話します。ネタバレありです。この映画はかなりリアルに統合失調症について描いていると思います。
統合失調症の前兆期、急性期、消耗期、再発、回復期において、本人やパートナーや周りの人がどのような事を経験するかについて、かなりよく描かれていると思います。
ただし、統合失調症患者が経験するのは、幻視よりも幻聴が多いです。そこはちょっと違いますが、統合失調症の事を全然知らない人が、この病気をとりあえず知るために観る事はとてもいいと思います。
まず、この映画のあらすじを言いますが、あらすじは面倒臭かったら飛ばしてもいいです。その後の方が言いたい事が多く話されています。
あらすじ
まず、前兆期は大学院時代にあたると思います。ナッシュは、プリンストン大学で数学を専攻しました。そこで、完全にオリジナルな理論を作り上げようという野心に燃えました。
それもなかなか叶わず焦り苦しみます。その事は統合失調症の悪化につながりました。実在しないルームメイトのチャールズが幻覚として現れます。
その後、ゲーム理論の分野で画期的な論文を書き上げました。その功績によって、研究者の憧れのウィーラー研究所という所に勤め先が決まりました。
そこでも目覚ましい活躍を続けました。ですが、やがて急性期に入ります。ナッシュは、ソ連に命を狙われているという妄想を起こします。米国国防総省のエージェントと名乗るパーチャーが、自分をソ連から守る者として、幻覚として現れます。
妻のアリシアは、ナッシュの異変に気づきます。精神科医のローゼンが介入し、ナッシュは入院する事になりました。
薬を服用し、退院後、消耗期に入ります。自分の研究も頭がぼんやりしてできません。周りの無理解から怠けていると思われたり、薬の副作用による性的不能から妻に応じる事もできません。
そこでナッシュは断薬をして、再発します。ローゼン医師、アリシア、ナッシュで話し合いが持たれます。ローゼンからは再入院が必要と言われます。ナッシュは再入院を拒みます。
アリシアは、自分の無理解があった事、ナッシュが苦しい症状に襲われながら、アリシアへの愛までをも失わないように必死に戦っている事を理解します。
アリシアは、病気のままのありのままのナッシュを愛す覚悟をし、二人の回復の道が始まります。再入院はせず、二人で回復を果たそうと決意します。
アリシア曰く、「この悪夢から目覚める方法は、頭脳が知っているのではなく、心が知っている」という事でした。
回復は、その言葉のように行われます。ナッシュは、プリンストン大学の図書館に規則正しく通い、数学的思索を続けるという生活に入りました。
頭の中の幻覚妄想を必死で振り払い、アリシアの愛という、幻覚よりも確実なリアルを見つめ続けました。頭の中よりむしろ心を見つめ、日々を繰り返したと言ってもいいかもしれません。人々からは笑われ、バカにされました。
何十年もたち、ある日図書館で研究を続けるナッシュにトビーケリーという若い学生が話かけます。ナッシュはトビーケリーの理論に感銘を受けます。彼はナッシュの若い頃の理論に影響を受けていました。ケリーに何かを教えたいという心が湧き上がりました。
それをきっかけに大学の授業を担当したいと思い始めました。ナッシュの授業は学生に人気になりました。ナッシュが若い頃に行った酷い授業とは全く違っていました。昔、ナッシュが持っていなかった「若い熱心な心に対する愛」を持つに至ったことは明白でした。
アリシアから受け取った愛は、何十年の辛苦を経て昇華され、そこで花咲きました。そこで統合失調症の回復が果たされました。
その後、若い頃の功績によってノーベル賞を受賞しましたが、それはさして重要ではないと思います。人から受け取った愛を、自分も人に受け渡す事ができるようになる事、それが果たされれば、病気の回復と同じ事だと思います。それ以上のものはないと思います。
愛について
あらすじが思ったより長くなりました。早く本題に入りたいのですが、その前にこれから愛という言葉を繰り返し使うので、愛の定義と言うか、自分が愛についてどう捉えているか少しだけ話します。この映画は愛についての色合いが強いので、愛という言葉を繰り返し使わざるを得ません。
愛とは、自分の思いや考えを放棄して、虚ろになり、目の前の人をありのままに受け入れる事だと思います。自分はクリスチャンではないのですが、例えば、神も、全てを受け入れる虚ろな状態の、愛そのものであると言われます。
親切心みたいなものが愛だと思われがちですけど、親切は、愛の実践的な形のうちの1つに過ぎないと思います。愛の実践的な形には他にも、敢えて厳しくしたり、放置しておいたりするというのもあり得ると思います。厳しく試練を与えたり、放置したりするという事は、神がよくやる事かもしれません。
要するに、まず、全てを受け入れる虚ろな愛の状態があります。そこから外側のいろいろな状況に合わせて自然と生じる行動が、愛の様々な「形」であり、実践だと思います。
それは、親切だったり、厳しかったり、放置して見守るというものであり得ます。この映画の主題歌でも、愛はあらゆる形をとることができる、と歌われています。
ですがあくまでも、基本的な姿勢として、愛は、自分の思い考えを放棄して虚ろになり、相手のありのままを受け入れます。言った後に気づきましたが、仏教で言う無になる事にも近いかもしれません。
例えば、アリシアもナッシュも回復期には、お互いにそのような事をしています。
ナッシュはプリンストン大学へ、発病後初めて行きましたが、ストレスから幻覚妄想を起こし大失敗をします。落ち込むナッシュをアリシアは受け入れ、また明日行ってみようと励まします。
アリシアは既に自分の思いや考え、自我を放棄し、ありのままのナッシュを愛す決意をしていたので、ナッシュがどんな失敗をしても受け入れます。
ナッシュも幻覚妄想を必死で振り払い、アリシアの愛を見つめようとします。幻覚妄想を否定する事は、ローゼン医師も言っているように、大変に辛い事でもあります。幻覚妄想を振り払う事は、先程言ったように「自分の思いや考えを放棄して虚ろになり、目の前の相手を受け入れる」という愛の行いにもつながります。
幻覚妄想を振り払う事は、頭の中の考えでなく、アリシアの側につく事を意味します。それはアリシアへの愛の証明になっています。
統合失調症はなぜ発症するか
ここからやっと本題に入ります。まず、「統合失調症はなぜ発症するか」という事について話します。
統合失調症は、単一で一様な病気ではないので、原因も様々かもしれません。あくまで、この映画に沿って話します。
先程、自分は愛とは自分の思いや考えを放棄して虚ろになり、目の前の人をありのままに受け入れる事だと言いました。
それとは反対に、統合失調症は、自分の頭の中の強い思い考えに捉われ過ぎる事で発症します。それらの強い思い考えが理性でコントロールできないものとなって、幻覚や妄想に変わります。
ナッシュの場合、大学院時代、完全にオリジナルな理論を作り上げようという野心がありました。それができなければ、自分の存在意義はないとまで言っています。
そのような強い思い考えは、なかなか実現できない事によって、焦りになり、ぐらつかされ、理性のコントロールを失います。その時に統合失調症の発症の根が生まれたのだと思います。
普通の統合失調症患者でも、急にはりきり出して、大きな目標を立てたり、大学受験するとか言い出したりして、強い思い考えに捉われる事があります。少し位はいいと思いますが、度が過ぎると再発につながると思います。
あまり過度に余計な考えを膨らませず、目の前にいる人たちを現実として見なくてはいけません。
頭の中の強い思い考えは、自分と目の前にいる人の間を分断します。言葉や行動は、他者に対して支配的なものになり、愛の行いから遠ざかるばかりでなく、目の前の人たちからの愛という現実を顧みないものになります。
やがてその強い思い考えは健全さや現実性を失っていき、幻覚や妄想に変わります。幻覚や妄想も、強い思いや考えと同様に、他者を受け入れる愛の状態から離れることであり、周りにいる人の持つ愛と言う現実からの分離です。
ですので、アリシアは、ナッシュが妄想に捉われる事に大変苦しみます。それはナッシュがアリシアの愛を見ないという事であり、裏切り行為にも等しいと、アリシアは考えます。
ここまでの話を繰り返してまとめます。愛とは、自分の思い考えを放棄して虚ろになり、相手をありのままに受け入れる事です。反対に、統合失調症は、自分の頭の中の強い思い考えに捉われ過ぎる事で発症します。強い思い考えは、現実を見失い、妄想や幻覚に変わります。そういう事が、この映画の中で言われていると、自分は思います。
統合失調症はどうやったら回復するか
次に、統合失調症はどうやったら回復するかについて話します。
アリシアはナッシュが妄想に捉われる事に苦しみますが、実はナッシュは必死に幻覚妄想を振り払い、アリシアの愛を見ようとしている事に気づきます。
そこで、アリシアはありのままのナッシュを愛す覚悟をします。この映画の主題歌は「All Love Can Be」です。日本語に訳すと、「愛がとる事ができる全ての形」という感じだと思います。
「悪夢があなたを目覚めさせ泣かせるなら、愛ができる全ての事やって見せましょう。愛はなんだって実現できる」という事が歌われています。
回復期におけるアリシアの内面もこのようなものだったかもしれません。この歌は次のような事を言っていると思います。
一般的に言って、遠くを見過ぎる男の側の方が、自分の頭の中の強い思い考えの悪夢に囚われがちです。観念、理想、野望、などの悪夢に陥りがちです。そんな時、女が男に為す最も良い事は、目の前の現実を見させ、身近な人々と愛し合う喜びを教える事です。そういう事が歌われていると思います。
アリシアが回復期にナッシュに為した事もそういう事だと思います。
アリシアに受け入れられ、愛される事によって、ナッシュは頭の中の思いや考えの悪夢(あるいは幻覚や妄想)を振り払い、現実を見る事を促されます。
先程の歌に歌われているように、そうやってナッシュは悪夢から覚め、そこに他者の愛がある事を発見しました。生涯で一番の発見であったとナッシュは言っています。
そうして自分の思い考えを放棄し現実を見る者となりました。言い換えれば、他者を受け入れ、愛する者となりました。
そこが回復へのスタート地点だと思います。自分の意見では、その愛の状態から、愛を形にして社会的に実践する事ができるようになるのが、統合失調症からの回復であると思います。
回復期にナッシュがどのように愛を社会的に形にし、回復したのかは、先程あらすじで言ったので繰り返しません。
アリシアによって目覚めさせられたナッシュの愛は、回復期の苦難を越えて昇華され、社会化されました。
ナッシュが行う事になった「若い熱心な心」に対する授業が、ナッシュにとっての愛の実践であり、愛が形になったものだと思います。
ナッシュの行う授業には若い頃の授業にはなかった愛があると言いました。その事によって学生からも好かれています。愛が形となった事で、「人々と愛し合う喜びを知る」事になりました。そこで回復が果たされました。
愛の状態がまずあり、そこからその愛を形にして実践する事ができるようになるのが回復だと言いました。
それは例えば、重度の荒廃の進んだ統合失調症患者の様子を見てみると観察できます。ぎこちない、不器用な形で、その人たちなりの愛を実践している様子を見る事があります。
そのような形で意思の疎通を試みています。そこに統合失調症患者の回復を感じます。うまく言えませんが、見た事がなかったらわからないかもしれません。
ですが、確かに医師や看護師や周りの人たちからの愛を受け止めた後、今度は自分も言葉や行動で愛を実践して形にしようとしているのが見受けられます。そうやって意思の疎通を確立して回復していくのだと思います。
一般的にも、よく回復している統合失調症患者は、余計な事を考えない心の虚ろな、愛の状態を持ち、その上で、愛を形にして行動として実践できる人だと思います。
まとめ
- 愛の状態は、頭の中の思い考えを放棄し、全てを受け入れる虚ろな状態。
- 統合失調症は、頭の中の思い考えが強まり、理性のコントロールを失い、幻覚妄想に変わったもの。
- 統合失調症の回復とは、頭の中の強い思い考えを放棄し、愛の状態を取り戻し、その上で、愛を社会的に実践できるようになる事。
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